人生前半の振り返り

38歳の私がこれまでの人生を振り返り、次へ活かすことを自分の視点から書いてみました。

ピアノ

 私が生まれるずっと前から、ママはピアノを弾いていた。ママは小学校の時からピアノを習っていた。電車で1時間もかかる先生のところに行っていた。ママのお母さんも付き添いで一緒に行っていて、レッスン中もそばでずっとママのピアノを聴いていたというから、お遊びの習い事ではなかった。先生はとても怖いお爺さんで、厳しく指導されていた。ママは懸命に練習した。中学校になって東京に引っ越してくるまで習っていた。東京に来て、中学、高校でもピアノを習っていた。音大の受験も考えたことがあった。

 英語ペラペラのスピーカーのように、どんな曲もスラスラと弾けるようになったママは、社会人になってからピアノのアルバイトをした。ホテルのラウンジでジャズやポップスを弾くアルバイトだ。先輩が休んだときのエキストラとして「トラ」という言葉を私達にも教えてくれた。会社の秘書としてOLをしていたけれど、ピアノのアルバイトはその月給の3倍もあったらしい。おいしいアルバイトだね。それで、OLを辞めてピアノ一本で生きていこうとしてアメリカへのピアノ留学も考えたらしい。でも結局お見合いの結婚をして断念したと言っていた。アメリカに行っていたら国際結婚して日本に戻ってこなかったかもしれないとも話していたママ。そうしたら、私もこの世にいないことになる。そしたら全く別の人生になっていたとよく言っていたママ。別の人生を歩んでみたくなるときが何度もあったのだなと娘の私は思った。

 ママは結婚して妊婦さんになってからもピアノを弾き続けた。姉も私もママのおなかにいるときからピアノを聞いている。ママのおなかから出てきた後も私達は何の不思議もなく、生活の中にママのピアノの音の中で過ごしている。だから私も姉も、人間は大人になったらピアノを弾くものだと思っていた。毎日歯ブラシやお風呂に入るのと同じように。

 私は3歳くらいからピアノはもちろん弾いていたけれど、楽しくて夢中になる、といった嗜好はなく、ママとコミュニケーションをとりたくて弾いていた。

高音と低音がたくさん出てくる指使いが激しい曲を弾いているときに、私は自分にかまってほしくてピアノを弾いてるママの手をつかみにかかっていた。PC作業に夢中になる飼い主に構ってほしい猫のようにね。それでも集中力が高いママは、私に腕をつかまれながらもピアノに向かっていた。ママをそんなに一生懸命にさせるピアノっていうのはすごいんだね、と幼い心に刻まれていった。

鉄板麺

 中学のときに、英語で赤毛のアンの一部が教科書に載っていた。どの部分が載っていたか内容はよく覚えていない。ただ、面白いと思ったことってなかなか忘れない。

 私の斜め前に座っていたゆんちゃんにいまでも感謝したい。英語の先生が、赤毛のアンの作者、L・M・モンゴメリーについてのエピソードを話していた。

「作者の名前はたくましい印象なので、作者はこの名前を気に入っていなかった」という話だ。

 外国人の名前とはどういう種類があるのか、どんな印象になるのか全く想像ができなかった。先生は、日本人の苗字でいうと、う~んそうですねえ、と言葉に詰まるだけで、具体例を示してくれない。この話するなら準備しておいてよ先生。

 けれど、ゆんちゃんはその話を聞いてすぐに的確に表現した。「轟さんでしょ。」と。私は一気に合点がいって大爆笑だった。真面目一辺倒な先生の授業でも、気を取り直して元気が出てきて、この中学に入って本当に良かったと心から思えたほどだった。 

 演劇部のゆんちゃんはものを例えるのがうまかった。女子特有のあいまいな言い方をしなかったし、だらだらと長く話すこともなかった。彼女は最短ワードでほぼ100%に近いイメージを人に伝える能力に長けていた。そういうふうに工夫して言葉を使っているようなった。広く言葉や意味を知っていないとできないことだ。B型で面白かったゆんちゃん、ぜひ言葉を扱う仕事をしてほしいと願う。

 当時、焼きそばのCMで、家が回転して後ろ半分が鉄板焼き屋さんになって焼きそばを作っているというCMがあった。ゆんちゃんは演劇部の舞台の真ん中が回転テーブルのように動く床のことをいつも真顔で「鉄板麺」と言い切っていた。私はそれを聞く度にうけていた。いまでも鉄板麺と聞くだけで吹き出してしまう

実技人選

 中学一年生のときにクラス毎の合唱会があった。ピアノ伴奏者や指揮者もクラスで一人ずつ決めないといけない。何年も共に過ごしている仲間なら、どの子がピアノがうまいとか、指揮者向きの性格とか、なんとなく分かるものだ。でもひと月前まで別々の小学校に通っていた人々の集団だ。まだ話してもいない人がお互い多い中で、だれがどのくらいピアノが上手いかなんて全く分からない。

 私の通った学校は地味で控えめな校風だった。プロテスタントの信仰のもと、不遇な人や弱いものを助けましょう、譲り合いましょう、と教えられていた。

 人と競争して順位を決める運動会のようなイベントすらも学園長は反対していたくらいだった。

 まだ校風にも染まっていない新入生の私達は中学受験という激しい競争の名残りもあり、立候補者もお互い譲らない。みなが納得して一名を決めるために、実技の人選を行うことに先生も承知する。

 音楽室のピアノで音楽の先生が出した課題曲を初見で弾いてどちらが上手いか、クラスのみんなと先生とで決めるという方法だ。このような実技選挙は6年間でこの一回だけだったが、このことは強いインパクトを私に与えた。この学校で何かになるには実力を発揮する必要があるんだ。初めての実技人選で私はそう思った。

 ここからは私の偏見だけど、滑り止めで入学した子なのかもしれないと思った。立候補者の二人からは、この学校では絶対に一番になってやる、というライバル心が伝わってくる。どちらが選ばれたかは覚えていないが、そのとき私は、自分も受験に落ちたことをいつまでも悔やんでいてはいけない、頑張ろう、そういうパワーをこの二人からもらった。

 

中学入学当初

 中学校一年生のときは何かと刺激を受けた。中学受験を失敗して落ち込んでいた私。

 周りの入学者たちは嬉しいオーラを放っていてまぶしかった。私は、自分と同じように滑り止めで入学している子と慰め合うような会話がしたいな、と思っていた。これ以上のプラス思考は生まれなかった。キラキラの子たちと話をしたい気持ちになれなかった。

 私はそのとき、中学受験時代の悪友が言っていた「一緒にお弁当食べよう」という言葉をふと思い出す。この言葉がすごく暗くて重たかったことを思い出す。

 いつも近くの席に座っていて、いつも一緒にお弁当食べていたのによくその言葉を言ってきた友。束縛されてるような気になる。一緒にお弁当食べたり、話したりしたけど、いつもとげとげしくて全く気の合わなかった友。自分が一人になりたくなくて私と一緒にいた友。

 自分の周りに心開ける人などいない。近くにあってもフワフワとどこかへ行ってしまうような友情。Gさんはそんなひとたちに囲まれていた小学校生活だったのだなと想像すると、いまさらながらGさんの苦しみが分かる。

 私はこの人たちと友情を作り始められるのか。私のいまの落ち込みを分かる友達っているのか。

 私の隣に座る友人Iさんは、中学で初めて友人になった人だった。

 私は「一緒にお弁当食べよう」と言葉を掛ける。すぐそばにいるのにそんなこと言う私を一瞬不思議そうに見るIさん。「もちろん一緒に食べるよ」と言ってくれた。私は本当に安心した。

 それで、中学受験時代の塾友だったGさんを心から許せた。Iさんは束縛気味な私の発言を重いとも受け止めず、フワフワした友情にもならず、中学高校の6年間で私の親友でいてくれた。

習い事

 小学校2年生からバイオリンを習っていた。ママが自宅でピアノを教えていて、ピアノも弾いてはいたけど、ピアノを習っている子は多かったし、みんなが習っていないことを習いたかった。

 

 同じマンションに桐朋音大のバイオリン科を卒業している人が住んでいた。その人は先生をしているわけではなかったが、ママが頼み込んで先生を始めてもらった。

 私の友人で誰もバイオリンを習っている人がいなかったので、優越感に浸れた。こんな不純な理由で習い始めた私の先生になってもらって、今思うと本当に申し訳なく思う。

 でもこの習い事は私に大きな自信をくれた。中学受験勉強をしているときにも、「勉強はやればできるようになる。でも頑張ってもみんなができないようなことをしているんだ。」なんてことを思って自分を取り戻していた。

 高校生まで習い続けたバイオリン。いつも音程を直されるような下手くそだったけれど、怒らず忍耐強く聴いてくれていた先生には感謝している。

その後、先生に悲劇が訪れるとは全くそのときは考えられなかった。

親の面接

 中学受験の面接は親のみの面接もある。

 お嬢様学校と言われる学校では面接で親の考え方や様子などを学校側が厳しくチェックする。

 第2志望校だったお嬢様校で、ママはパンツスーツをバッチリ着こなして面接に臨んだ。これがいけなかった。

 私は試験に手ごたえがあり、受かっている自信があった。でも結果は不合格。後から聞くと母がパンツスーツだと合格できないことが分かった。

 これにはだいぶショックを受けて泣きたくなった。でも人生とはうまくできている。 

 私がこのお嬢様学校に入学しても全く合わない校風にストレスがたまり、しまいにはぐれてしまっていただろう。

 あんなにバッチリ決まっていたファッションモデルのようなママのパンツスーツを否定する学校なんてこっちから願い下げである。神様がいいように取り計らってくれたのだと思うことにしている。

 

縁あるところ

 私とママは第4志望校の合格発表を見に来ていた。私たち親子の歩く前に母と小さなおこさんが二人で歩いていた。本人でなく妹のようだ。合格発表の掲示板を見て、「あ、お姉ちゃん合格してる!」と小さな声で叫んだ。

 私も合格を確認して一安心。私と同じように第1志望校に落ちたと予想できるその受験生に親近感が沸き、同情する。

 お母さんは娘が合格しているのにあまり喜んでいない。きっと難関校に合格するはずだったんだね。

 でものちに、彼女は日本女性で初のすごい業績を残す人になる。いま思うと、私と同じような人間なんて思ってしまってゴメンネだ。しかも妹さんも数年後この中学に入学することになる。

考えてもいなかったところに大きな縁があるときが人生にはある。